5.弁証法についての再考
 弁証法についてさらに考えてみましょう。伝統的な弁証法の立場から見ますと、一面の真理を述べていると言えます。しかし、弁証法は、主に、思考の方法に限って適用するべきです。

 あることを甲と考える。しかし、甲という考え方にのみ固執してはいけないのであって、それと相対する乙という面があるのではないかと考え方を変えてみる。そしてそのことが発見されれば、考え方を柔軟にしてそれを受け入れる。そして、その相対する二つの考え方を総合して、そのものの真の姿に近づくという具合です。弁証法の哲学は、私たちの思考を柔軟にしてくれるものと言えましょう。
 しかし、それ以上に出て、自然の事物などに弁証法を適用しようとすると、間違いを起こすことになってしまうのです。共産主義者はそうしたのです。

 現実に存在するもの、自然の事物等に弁証法を適用して、種子の胚芽と外皮とが対立関係にあるとしたり、卵の胚子と殻とが対立関係にあるとするのは根本的に間違いです。それはこじつけと言わなければなりません。

 種子の外皮が破れることや、卵の殻が破れることを闘争によって打倒された結果とみるのは、自然の真の姿に反しています。胚芽が成長したり、胚子が成長して卵の中でヒヨコの姿になっていくにしたがって、種子では外皮が薄くなって、破れやすくなり、卵では、殻が薄くなって同様に破れやすくなっていくのです。これは、闘争の姿ではなく、外皮、殻による胚芽、胚子の保護という役割、使命の終了を意味しているのです。

 存在するものの中にある二つの要素は「対立物」ではなく、共通の目的を目指す「相対物」であり、生命あるもの、目的をもっているものが「主体」、それ以外のものが「対象」となっているので、闘争ではなくその両者の相互補完の関係、授受の関係(授受作用)によって成長、発展していっているのです。

 「対立」こそ自然の本質、「闘争」こそ発展の原動力とする共産主義の弁証法の呪縛から一刻も早く逃れなければなりません。